実践日記

ヴィパッサナー瞑想の実践や釈尊の教えを通して日々の反省とダンマを再確認するために書きます。

典座教訓に学ぶ。②

「典座教訓」の典座とは一体何時ぞや?といった感じですが、

今はインターネットが普及していますしググれば何でも解決…のため典座の説明は省きますが。

 

「典座教訓」には料理、調理をする典座の心構えが記してあります。

しかし、典座だけではなく一般の私たちにも当てはまる、また実践してみる価値がある。

そんな著書だと思います。典座教訓の後書く予定の「赴粥飯法」も修行僧のみならず、

私たちも実践してみるといいものだと思います。

 

では、全てではないですが、私個人が皆さんに勧めたい箇所を抜粋して行こうと思います。

 

「典座の心の用い方」という章にこのような内容が書かれています。

食事の調理、支度することに対して凡眼(材料の良し悪しを決める)をもって

ものを見てはならないし、いい加減な心情でものを考えてはならない。

 

と説かれています。その後には…

 

たとえ粗末な菜っ葉を使って調理するときこれを嫌がってはならないし、

いい加減に扱ってはならない。反対に上等の食材を使って調理するときでも、

上等だからと喜んだり浮かれて弾んだりする心を起こしてはならない。

 

と説いています。

 

最初に凡眼について触れて行こうと思います。

私たちは食材を選ぶときどのような視点で選ぶでしょうか。

選ぶ基準は人それぞれだと思います。安いもの、形が良いもの、大小…など

しかし、道元禅師はそれは良くないと仰います。

例えばジャガイモを買うとする。

小さかろうと、大きかろうと形が良かろうと悪かろうと、

果たして何が違うのでしょうか?味でしょうか?

大小、美醜と言ってもジャガイモはジャガイモなのです。

それを私たちは好き嫌いのラベルを付けるわけです。

 

調理に関しても「面倒くさい」「時間がない」など。

確かに現代人は時間もなく忙しいです。するとしても簡単に。

時間があっても簡単に。もあるかもしれません。

例えばお客さんを招いて料理を振る舞うときは相当な手間をかけて調理します。

しかし、特別なことがないときは別にいいや。といった感じになりがちです。

 

そのようなことを言っていれば何にもできないと言われがちですが…

飽食時代と言われる今、本来の食事のあり方を考えているでしょうか。

 

美味しいや欲を先行させて大食らいをする。食事の意味が無くなっているように思います。

食事に対して少しでも省みることそれをやっていけば、暴飲暴食もなく、健康で

それこそ多くの食事が起因となり問題や病気などがなくなっていくと思います。

 

食べることが楽しみ大いに結構ですが、命をいただいていることを少しでも考えてみてください。

グルメ番組や料理番組を見ていてとても複雑な心境になります。

 

次も心を構えなどについて書いて行こうと思います。

 

 

 

 

 

典座教訓に学ぶ。

しばらくの間お休みしていましたが、また少しずつ書いて行こうと思います。

 

私の実践についての状況も踏まえながら、多くの方の利となるような内容を書いて行こうと思います。

 

今回からしばらくもう一度食事について書いて行こうと思います。

私事ではあるのですが、腎臓病を患い食事療法をしています。

 

低タンパク、低塩分を基本とせねばならず多くの方は嫌がると思います。

しかし、私は「ラッキー」と思ったわけです。何故ならば粗食の生活にできるからです。

 

何故粗食が良いのか?

以下の理由があります。

 

・貪ることから離れる。➡︎暴飲暴食をしなくなる。

・1日1.5食のための理由ができた。➡︎若いから沢山食べろと強要されない。

・精進料理生活に変える良いきっかけ。

 

という感じで仏道を歩む私にとっては有難いことでした。

今までの食生活の内容を改めるべく精進料理を作りながら生活していますが、

以前読んだことのあった「典座教訓」と「赴粥飯法」を読み直して、

調理をするにあたっての心構えや食す時の留意点を道元禅師の著書で振り返りつつ、

仏道に縁を頂いて歩む皆様方の利になるよう書いて行こうと思います。

 

捨てること

趣味って必要なのかな。と最近思うようになりました。

否定ではなく疑問ですので…(^_^;)

 

趣味に費やす時間、お金。生きていく上で必要でしょうか?

それを楽しみに仕事をして生きている方もいらっしゃいます。

良いと思います。ただすべての時間それに費やすのは少し問題ではありますが…

 

何が言いたいか。

捨てること覚えるとすごく軽くなる。です。

ぶっちゃけてしまえばある時期私の貯金通帳0でした(笑)

何やっていたか。病気療養でした。貯金崩して生活していました。

会社からは手当金なく…ま、ここはいいとして。

 

お金がなくなると生活大変です。そのため私はすべてのことをやめました。

・外出

・趣味

・食事

 

外出しなければ出費しませんから何も買わなくなります。

何も買わなくなってくると、生活に必要ないものばっかり買っていたことに気づき、

いらないものはすべての売りました。大したお金にはなりませんでしたが、食費に多少はなりました。

それでも売れないものは必要な方にあげたり、捨てました。

 

要らないものを売るとどうなるか。何もしなくなるので趣味もなくなります。

趣味がなくなればお金も時間も使わない。

 

そこで世間的には「そんなんじゃつまらない。」「生きていて楽しくない」

となりますが、私はそこにお釈迦様の教えで埋めました。瞑想と仏典を読むことが楽しくなって今はそれらが趣味、生活の一部です。

 

食事に関しては、外出ができません。動きません。

かなり太りました。食費も三食食べるとすごいので、食事瞑想をして1日2食にしたところ、

食費は浮く、痩せる、欲で食べることをやめる。ことができたました。

 

こうして色んなものを捨てた結果、心が軽くなりました。

今までの生活、趣味などは障壁でしかなかったのです。

なんのために生きて、なんで苦しいのか。

趣味で一時的に気がまぎれても苦は消えない。むしろ増えるだけでした。

 

苦の原因(趣味など)がなければ苦は生まれません。(別の何かが生まれたりはあると思いますが…)

 

今は、お金なくてもいいや。体が悪い?仕方ないや。が当たり前になっていまして。

このような体験なかったら苦しい生活の逆戻りだったかなと思います。

 

捨てること。いろいろ捨てました。今は正解だと胸張って言えます。

お釈迦様の教えは本当に結果にコミットしますよ(笑)

 

これも詳しく書いていこうかと思っています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

利他行②

昔、お付き合いをしていた時の話です。

ざっくばらんですが書いていきます。

 

私がお付き合いをしていた時、私は社会人、相手は学生。

学生はお金がないですね…?(社会人比)お相手のお家の家庭状況もあって、

私は少しでも役に立てたらの一心で食事に誘ったり、服や靴、バックなどを買ったりしていました。

 

私自身ファッションなどに興味はなかったため自分のことにお金を使うことがまずなかったです。

 

お相手も申し訳ない気持ちが強かったようです。

ここまではいいです。

 

しかし、そんな生活が一年、二年と続くと気持ちは変化してきて、相手にとっては

私は依存の対象になったのです。色々言っても聞いてくれる。と。

 

要求はエスカレートしていきました。私も体を悪くして願いに応えることができなくなってきました。

 

そんなときに言われたのが「〇〇がいないと困る。つまらない」とか、

今の言葉?で言うなればかまちょですね。

構わないと浮気されの繰り返しで。(笑)

 

それでも当時は執着していましたので、すべて許してまた色々しての繰り返しでした。

 

そんな中このままだとこの子は社会に出たときに大変になるだろうと思い、

相手が悩みがある時や甘えたいとき少し距離を置いて、自分で解決しなさいよ。

といった対応に切り替えました。全ての事を助けていたら、私も苦しくなり、相手も世間と関わらなくなってしまいます。そこでいろいろと考え、お別れをしました。

 

今ではそのお相手は見違えるように自立したようでよかったと思っています。

 

私の場合は…自分は何でも助けて喜んでくれればそれでいい。相手は優しいから甘えたり、依存したり、外部との接触を絶ってしまう事があります。

 

このように利他行?かはわかりませんが、優し過ぎると相手は堕落してしまう事に気がつきました。

やりすぎは良くないという事ですね。

 

次も私の経験…今度は成功例?を書こうかと思います。

 

 

 

 

 

 

 

利他行

こんばんは。幸いにお過ごしかと思います。

 

今回は「利他行」についてぼちぼち書いていこうかなと思います。

 

大乗仏教では、菩薩行として強調されていますが、

善行為は自分も他人も双方苦に陥りやすいものかなと思います。

 

それはなぜか?

・見返りを求める。

・〇〇してあげている。などの慢に変わりやすい。(自己満足)

 

など初めは喜捨で動いたとしても、常態化すれば、

「〇〇のために時間を使った」「感謝なんて当たり前」なんて言った自我意識が濃くなってくると

成したことの相応する何かを求めたり、服従では無いですが、偉そうにしたり…

と何かをしてあげるということは等価交換が成立するという概念?が一般的かと思います。

 

また、受ける側の人間にも

・甘え、期待感が出る。

・常態化によってもういい、嫌と言えなくなる。

 

このようなことが出てくるように思います。

 

双方初めは何も求めず関係を築いてきても、慣れてくると

して当たり前、見返りを得て当たり前になってくると苦しいです。また片方が上記の状態になっても一方的なので、争いは避けられないように思います。

 

見返りを求めることはないが、依存される。

もしくは依存はしないが見返りをすごく求める。などです。

 

これはどんな時でも起こりうることだと思います。

互いに思い通りにいかない、求不得苦の状態になると怒って争いになります。

 

それが一番現れやすいのは恋人や夫婦関係かと思います。

 

私の経験を踏まえながら次を書いていこうかと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

みんなで楽しく食べると美味しい…?

今日は私、ウポーサタのため夕食を食べないのですが、

同居している祖母がポツリ。

「みんなで食べなきゃ美味しくない」「味気がしない」

 

私の祖母にとって昔から皆で食事しないと嫌…という感じで、

私が今日明日と食事はしませんと了承しているのに

そう言われてしまうと…なかなか(^_^;)

 

元々美味しく調理してある食事でも皆で食べなければまずい。

皆で食べればもっと美味しい…

 

私の食の考えは受け付けていただけないので仕方ありませんが。

やはり固定概念。

固定概念って強いと思います。

 

ぴったり張り付いて取れないですね。

食事を欲で食べるのは卒業したので、尚更観察していると…

面白いです。

 

「本来なら違うじゃん。」と話せば

頭がおかしい。屁理屈と言われて(^_^;)

 

そんな楽しくないこと言わないでと言われて

「楽しむものじゃないよなぁ」と思う一方、欲、固定概念の怖さを感じました。

 

 

 

 

 

食事に関して④

食事に関していろいろと書いてきましたが、

社会的に問題となっていることを考え、私がやっていることを書いていきます。

 

世界で飢餓に苦しんでいる人は何人いるでしょうか?

インターネットで調べればすぐわかりますが…

7億9500万人です。

9人に1人が飢餓に苦しんでいます。

 

発展途上国 約1億人が低体重で生まれてきます。

そのような満足に食事もできない人々がいる中で食べたいものを食べたりできない

と、私は思いました。

 

そこで無駄遣いしてしまうお金をユニセフ募金に回しました。

 

日本でも食事に困っている人々がいます。

そのような人に賞味期限切れたが問題なく食べられる食品…などを持ち込んで

食事に困る人や施設に届けられるフードバンクが私の住んでいる地域にあり、

買いだめをして捨てそうなものをそこへ持ち込んで役立ててもらっています。

 

農水省も食べられるのに廃棄してしまうもの…食品ロスを減らそうとしています。

そのようなフードバンクややむおえず処分する場合でも家畜用の飼料や、

農作物の肥料、バイオマスなどのエネルギーに利用したりしています。

 

このような食品廃棄物は年1700万tで、

およそ半分の500〜800万tがまだ食べられるものです。

 

いかに食物を無駄にしているか考えさせられます。コンビニのお弁当や規格外の食品など

形や品質に囚われて可、不可が決められ味は同じでも捨てられてしまいます。

 

このような感覚で良いのでしょうか…私は同じトマトでも不格好のものを選びます。

品質が良くないと割引しますが、私は内容は同じなためそちらを買ってきます。

 

見た目が綺麗、汚い関係なく、生きるためのエネルギーになるのは変わりません。

そんなことに囚われてしまうと本質を見失ってしまいますね。

 

この④では主観を捨てて、本質に気がつき、我だけ良いのではなく

困っている人が多い中どのような工夫ができ、皆困ることのない生活を

考えるきっかけになればと思います。

 

予想以上に貧困は私たちが考えているほどの貧困ではないことを

もう一度考えて、実行できるようにしていきたいですね。

 

私もこれからもできる限り精進し、誰かの助けになればと思います。