実践日記

ヴィパッサナー瞑想の実践や釈尊の教えを通して日々の反省とダンマを再確認するために書きます。

ゴキブリさん。

先ほどのこと、母が「嫌っ‼️早くころして‼️」と私を呼びました。

 

しかし私は五戒があり、このゴキブリさんも私と同じと言う感覚ですので手で捕まえて外に出そうとしましたが、怖がって逃げられました。

 

「飛ぶから早く」何て言われても多分ゴキブリさんもテンパって、怖くて逃げたくて飛ぶのだと勝手に思いますが、対応しているうちに人間の心の方がもっと汚いよなぁ。なんて思っていました。

 

ま、そのうち自分でどこかへ行くだろうと思っています。

 

しかし、母に言いたいことが1つ。

ゴキブリさんがきもいならば我が身も心も醜いもの

フォルムや大きさはバラバラでも殺していい命がいるはずがない

意味があって生きていて、死に至るタイミングはそれぞれ違うとしてもいずれ死に行く命

同じにしか見えない。と

 

ゴキブリさんにもまた慈しみをもって対応できたかなと思います。

 

とにかく、逃がして殺すことは避けました。

しかし、私の考えは理解してもらえず変人扱いされるのは承知の上。

もう慣れましたが…(^_^;)

 

 

 

 

食事に関して③

釈尊の食事に対する教えはダンマパダやスッタニパータによく出てくる言葉からわかります。

仏典には…

「1日1食をとり、夜間に食べることを避け、定められた時間以外に食べることをやめます。」

 

ダンマパダの食事についての言葉を抜粋すると…

「食事の節度を知り」「食物についてその本性を知り」「食物をむさぼらず」

「食事に関して適当な量を知り」

「他人のくれた食物や飲料に満足しない人は昼も夜も心の安らぎを得ない」

「大食らいをして、眠りを好み、転げまわって寝て、まどろんでいる愚鈍な人は、大きな豚の様に糧を    食べて肥り、繰り返し母胎に入って迷いの生存を続ける。」

 

ダンマパダ:7番,8番,92番,93番,185番,249番,325番

 

釈尊は「量を知り」と言われる様に、多すぎても少なすぎても、

身体を害して修行の妨げになると忠告された様に感じます。

食べ物を貪り、大食らいするような旺盛な食欲は人間の本能かと思いますが、食事においては腹八分目ではないですが、量をきちっと軽くお腹が満たされたくらいで留めると良いかと思います。

食事だけでなく、衣服や薬、寝具などの生活必需品も分量をよく理解するようにと置き換えて考えることができます。

 

しかし、仏典にあるようなことを在家、世俗の私たちがしなくても良いですが、

貪らない、よく味わって食す。栄養バランスを考える。など

出来る限りしっかりしたバランスの取れた偏りのないメニューで最初から食事をしていけば、

病気もダイエットなどにも悩む必要がなくなりますね。

 

私は比丘が守る戒律(主に食事)を真似てみたら以外と快適に生活を送れることを経験して、

今は守れないところもありますが、生活を比丘が送るような生活をしています。

 

戒律は自分を縛り上げて苦しくなるものではなく、道徳に沿った生き方ができるように思います。

シンプルかつ過ごしやすい…と私個人は思います。

※興味がある方は試してみるのもアリかと…

 

食生活が変わると無駄な食べ物を買わなくなります。

大量買いをして余って捨てる…ということもあります。

生活が変わって自分の外側に目を向けてみると飢餓問題が出てきました。

そこで私の経験を交えながら食品が余ったり、食費が浮いたりした時にできることを紹介してみようと思います。

 

※仏典の抜粋:長部経典第四経種徳経、小の戒めより(春秋社 原始仏典第1巻、長部経典Ⅰ)

ダンマパダの詩句一部抜粋:中村元先生訳 岩波文庫ブッダの真理のことより

 

 

 

食事に関して②

では食事ってなんでしょうか。

国語辞典には「生命を維持するために毎日何度か食物を食べること」

とあります。

 

禅宗では食前に必ず「五観の偈」を唱えて貪欲などを戒めて食事の本来の意味を確認します。

 

今の私たちの食生活を振り返ってみると、辞書にあるような感覚で食べていますか?

全て美味しそうや、あれ食べたい、あれは食べたくない、そんな気分じゃないと、

欲求や気持ちで食べていますね。

 

前の食事に関して①でも書きましたが、生活習慣病などの病気や肥満などになるのです。

 

では仏教的にはどう食事しているのでしょうか。

この仏教的な食生活に変えてみると、貪ることを止めて健康的な食生活になる。

と私は経験しました。

 

私の経験から話します。

私の職業は農業で、メロンとイチゴの栽培をしています。あるとき椎間板ヘルニアで就業できず長期休暇を取って休んでいました。

仕事をしているときは1日でエネルギーを使う量が多いためたくさん食べていました。

その頃は食事量も多くても問題ありませんが、休業した途端に一気に太ってしまい、

最高で68kgでした。

私の適正体重が55kgなので13kg多く、お腹も出ていました。

 

そこで食事の瞑想を毎日していました。ヴィパッサナー瞑想の食事版で、気づきながら食事をするというものです。(スマナサーラ長老著書の自分を変える気づきの瞑想法に詳しく載っています。)

 

最初は不慣れで変な感じでしたが、慣れると普段の1食分が食べきれないくらいすぐに満腹になります。そこから1日2食の生活をして今まで続けてきて15kg体重が落ちました。

3月〜7月くらいまでの4ヶ月で13kg、そこから今日までで2kg落ちました。

肉体労働で少なくて大丈夫?なんて言われますが、たくさん食べられるような胃ではなくなったので、あまり食べなくても問題ないのです。

※個人差があるので鵜呑みにしないよう注意してください。

 

といった瞑想と、自分が今食べている食品にどんな人が関わったかを食事前に考えるのです。

例えばイチゴ。

私のような栽培農家、できたイチゴを運送する人、それを仕入れて売る人…細分化すればかなりの人が関わっています。またその人の労力や時間が費やされているわけですから、無駄にはできなくなります。しっかり感謝していただきますを言うと食に対する考えが変わってきて、世の中に溢れる食品を見て残念に思うのです。

 

あとは食事前に禅宗の五観偈に似た食事の観察…これを唱えます。

・正覚者の説かれた真理を遵守し、正しく観察してこの食事をいただきます。

 

・食事によって心が汚れることを戒め、身体を痛めることにも注意し、

   壊れてゆくこの肉体の修復のために、量を計って、この食事をいただきます。

 

・一切の生命に対して慈しみの念を抱き、釈尊の説かれた仏道を歩む目的を念頭において、

   一切の現象は無常であることを随念しつつ、この食事をいただきます。

 

このように観察して食事の瞑想に入ります。

 

お釈迦様は食事に関してどのように考えていらしたのか、修行僧はどの様な食事をするのか経典と戒律を見ながら、次の③を書いていこうと思います。

 

 

 

 

 

食事に関して①

テレビを見ていたら食べ物の紹介が流れていました。

(ほとんどテレビ見ないので多いかは不明ですが…)

 

「美味しそう」「わあ〜いいなあ」「食べたい」などなど食欲をそそりますね。

 

日本には多くの食品やお店がありますね。

1日3食に加え、デザートや間食…食べたいときに食べられます。

 

そんな恵まれた日本の食に関して、何が問題になっているかわかりますか?

生活習慣病メタボリックシンドローム、偏食など…体についての問題と

残飯の問題、飢餓問題など社会的なものもあります。

 体に関しての問題は病気が多いです。これは貪ることが原因と思います。

 

三毒(貪・瞋・癡)の内の貪です。

 

焼肉食べ放題、バイキング…など胃を満たしても食べ続けようとする…

「元をとるまで食べなきゃ損」「全部食べたい」など貪るから体が壊れたり、肥満になってゆくのです。

 

そしてそれに応じた健康食品が出てきたり、ダイエット方がたくさん出て、迷ったり憂うたりするのです。

 

いくら食育や医師が食生活の改善を促しても、欲には勝てないのです。

さらに厄介なのが、元々経験している美味しいというデータに➕「あの芸能人がオススメ」とか「行列のできる」などといった付加価値に踊らされて貪ってしまう…

 

では本来の食事ってなんでしょうか?

 

 

 

 

 

 

自分らしく

「若者らしく」ってなんでしょうか?

 

確かに私は20代頭ですが、周りの知人から

「もっとはっちゃけていいじゃん」「音楽とかファッションとかしてみたら?」

とか言われます。

 

正直、若者らしくしても、世俗の流行に合わせても得られるのは虚しさだけだと思います。

 

私は趣味が瞑想と仏典を読んだり、少し楽器を弾いたり、ゲームやスポーツ、最近の音楽など

あまり興味が湧きません。

 

私自身元々内向的であまり友達と付き合うこともなく、1人でいても平気な感じで

群たり、バカ騒ぎをするのが嫌なタイプです。

 

テーラワーダ仏教にであってからは瞑想で得られる静寂な時間が好きで、

俗世的な楽しみが苦であると思えてきています。

 

私は他人から何を言われようと傾くこともなく、今のまま精進するだけです。

「人生楽しもう」とか「生きる楽しみを探そう」とか…

聞いていると生きることも苦です。

楽しむことも苦です。錯覚です。

 

「人生楽ありゃ苦もあるさ〜♪」

水戸黄門のこの歌…本当は楽なんてないんですよね。

 

本当の楽はお釈迦様が説かれた教えを実践して涅槃に至る…

涅槃を目指して精進していきます。

 

 

 

 

 

 

言葉

「荒々しい言葉を言うな。言われた人々は汝に言い返すであろう。

                                           怒りを含んだ言葉は苦痛である。法服が汝の身に至るであろう。」

ダンマパダ 第10章暴力  133番

 

八正道にも「正語」が出てきます。

また在家信者が守る五戒にも「偽りを言わない」が出てきます。

十悪の中でも口業のものは4つありますね。

・妄語:嘘をつく、でたらめを言う

・綺語:無意味、無益なことを言う

・悪口:他人を傷つける言葉、陰口、中傷

・両舌:他人の仲を裂く言葉

 

原始仏典にも口業に関することが多く出てきます。

 

日常生活において絶対話さないというのはありませんね。

でも本当に意識して戒めていないと口から愚痴やよくない言葉、無駄話、噂話…

といった感じでしゃべり続けますね。

でもずっとしゃべり続けるのは無駄なエネルギー使うし、相手がどのように捉えるかによって争いや喧嘩に発展してしまうこともあります。

 

言葉という容器に自分の考え、想いを入れて発するものだと思います。

知り合いのタイ人ご夫婦とお話をするときも想いを上手く伝えられずに困ることも多々あります。

しかし、ジェスチャーを交えながらなのでわかってくれます。

 

横道に逸れましたが、言葉を気をつけるというのは

相手を傷つけない言葉、嘘、両舌など相手にとって不利になることを言いますね。

でも知らないうちに自分もその発言で苦しみを受けることもあります。

 

実際私も小さい頃やつい3,4年前は嘘をつくことが多くにばれた時は

多くの苦しみを受けたことを覚えています。

 

「嘘も方便」なんていういい言い訳をよく使ったものですが、相手を喜ばせようと、話を盛り上げようとしてつく嘘も苦しみを受けますね。

嘘をつけばその分嘘を重ねていかなければならず苦しむのは結局本人ですね。

 

私の中でおしゃべりは楽しいものではなくて苦しみをうむ、

疲れるもの…といった感覚になってきました。

 

これからも思わずポロっと悪い言葉が出ないように気付き絶やさず精進していきます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

痛み

人は切る、ぶつける…など体の外で起こる痛みと、

発作や頭痛、神経痛など体の中で起きる痛みがありますね。

 

誰でも怪我や病気はしないってことはないと思いますが、この「痛み」について瞑想実践する中で気付いたことを書いていきます。

 

なぜ痛みのことを書くか?

私自身20代頭にして椎間板ヘルニアになり、激しい神経痛と痺れや感覚麻痺、足の筋力の低下によって日常生活に支障をきたしているからです。

このようになったのも今は様々な因や縁が絡んでこのようになったのだと受け入れています。

 

周りの人やテーラワーダ仏教に出会う前までの私なら

「会社や経営者が悪い」「仕事内容が過酷すぎる」「こっちは被害者」なんていうのが

世間一般の考え方ですが、全てが全て100%一方が悪いのか…

冷静に考えれば自分にも非なる部分があります。そのため私は誰のせいにもしないですし、

「なってしまったものは仕方ない」文句言ったって治るものでもない。

だからありのまま感じて、少しずつ治してゆくそう決めました。

それに他人にはこの痛みはわかりません。私にも他人の痛みはわかりません。

他人に痛みを理解して欲しい。辛いことわかって欲しいは難しい話です。

想像はできます。思いやれます。それでも本当に相手の痛みを理解したことにはなりません。

結局「こうだろう」という推測で終わってしまいます。

気にかける気持ちは大切ですが…

そしてわかってもらえないと怒ったり、悲しんだりしてしまいがちですが、

誰かに同情を求めるのは痛みの解決にもならないし、苦が増大するだけ。

自分の痛みは自分でしか管理できないと思います。

 

話がかなり脱線しましたが、私の場合、瞑想実践すると始めた最初は痛いです。

しかし、時間が経つにつれ痛みが弱くなり、最終的にぼやけます。

痛みは体が異常な状態の時に神経や脳が反応して痛いと判断します。

 

それに24時間ずっと同じ痛みの強さではありません。痛みは永遠ではありません。弱まる時間帯があったり、寝ている時常に痛いかというと痛くないですね。無常ゆえ痛みにも変化があるのがわかりました。

そして瞑想時がとても顕著に弱まります。楽になります。服薬や注射などで痛みを緩和するよりもっと楽です。

 

やはり心が違う対象に注意をしていると痛みを感じる場所から

呼吸などに集中するので痛みが引きます。

 

あとは痛がったり、一日中ではないですが「痛い」とずっと考えない。

意外と考えなければ痛い時間が少ない感じがします。

「病気は気から」痛いと思えば痛い。痛くないと思えばさほど大したことないと思います。

 

痛みでなくても楽、苦、楽でも苦でもない…全て心によって判断してそこからあれこれ考えます。

結局自分の心の持ちようなんですね。

瞑想しなくても痛みはずっとあるわけじゃないし、いつかはなくなる。といった

寛容な心で受け入れられればいくらか違うと思います。

 

《まとめ》

・痛みの強さにも変化がある。

・ずっと痛いわけではない

・痛いと感じるまではいい。そこから痛い痛いと考える、負のことを考えることは

痛みを増大させるだけでなく苦しみをもたらす

・他人には100%理解してもらえない。だから優しくして欲しいなどと期待しない。

・なってしまったものは仕方ない。受け入れて治すこと痛みを和らげることを考えてゆく。

他人がどう評価しようと痛みは和らぐことはない。

・全て自分の心がどう感じるかによる。

 

ネガティヴにならず前向きに「痛いけどそのうち治る」と思うようにすれば痛いですがなんとかなるものかなと私は思いました。