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実践日記

ヴィパッサナー瞑想の実践や釈尊の教えを通して日々の反省とダンマを再確認するために書きます。

痛み

人は切る、ぶつける…など体の外で起こる痛みと、

発作や頭痛、神経痛など体の中で起きる痛みがありますね。

 

誰でも怪我や病気はしないってことはないと思いますが、この「痛み」について瞑想実践する中で気付いたことを書いていきます。

 

なぜ痛みのことを書くか?

私自身20代頭にして椎間板ヘルニアになり、激しい神経痛と痺れや感覚麻痺、足の筋力の低下によって日常生活に支障をきたしているからです。

このようになったのも今は様々な因や縁が絡んでこのようになったのだと受け入れています。

 

周りの人やテーラワーダ仏教に出会う前までの私なら

「会社や経営者が悪い」「仕事内容が過酷すぎる」「こっちは被害者」なんていうのが

世間一般の考え方ですが、全てが全て100%一方が悪いのか…

冷静に考えれば自分にも非なる部分があります。そのため私は誰のせいにもしないですし、

「なってしまったものは仕方ない」文句言ったって治るものでもない。

だからありのまま感じて、少しずつ治してゆくそう決めました。

それに他人にはこの痛みはわかりません。私にも他人の痛みはわかりません。

他人に痛みを理解して欲しい。辛いことわかって欲しいは難しい話です。

想像はできます。思いやれます。それでも本当に相手の痛みを理解したことにはなりません。

結局「こうだろう」という推測で終わってしまいます。

気にかける気持ちは大切ですが…

そしてわかってもらえないと怒ったり、悲しんだりしてしまいがちですが、

誰かに同情を求めるのは痛みの解決にもならないし、苦が増大するだけ。

自分の痛みは自分でしか管理できないと思います。

 

話がかなり脱線しましたが、私の場合、瞑想実践すると始めた最初は痛いです。

しかし、時間が経つにつれ痛みが弱くなり、最終的にぼやけます。

痛みは体が異常な状態の時に神経や脳が反応して痛いと判断します。

 

それに24時間ずっと同じ痛みの強さではありません。痛みは永遠ではありません。弱まる時間帯があったり、寝ている時常に痛いかというと痛くないですね。無常ゆえ痛みにも変化があるのがわかりました。

そして瞑想時がとても顕著に弱まります。楽になります。服薬や注射などで痛みを緩和するよりもっと楽です。

 

やはり心が違う対象に注意をしていると痛みを感じる場所から

呼吸などに集中するので痛みが引きます。

 

あとは痛がったり、一日中ではないですが「痛い」とずっと考えない。

意外と考えなければ痛い時間が少ない感じがします。

「病気は気から」痛いと思えば痛い。痛くないと思えばさほど大したことないと思います。

 

痛みでなくても楽、苦、楽でも苦でもない…全て心によって判断してそこからあれこれ考えます。

結局自分の心の持ちようなんですね。

瞑想しなくても痛みはずっとあるわけじゃないし、いつかはなくなる。といった

寛容な心で受け入れられればいくらか違うと思います。

 

《まとめ》

・痛みの強さにも変化がある。

・ずっと痛いわけではない

・痛いと感じるまではいい。そこから痛い痛いと考える、負のことを考えることは

痛みを増大させるだけでなく苦しみをもたらす

・他人には100%理解してもらえない。だから優しくして欲しいなどと期待しない。

・なってしまったものは仕方ない。受け入れて治すこと痛みを和らげることを考えてゆく。

他人がどう評価しようと痛みは和らぐことはない。

・全て自分の心がどう感じるかによる。

 

ネガティヴにならず前向きに「痛いけどそのうち治る」と思うようにすれば痛いですがなんとかなるものかなと私は思いました。